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February 21, 2005
『Claudio Ciborra 1951-2005』
珍しく連日のエントリーだが、このことはやはり触れておかないと僕の気持ちが落ち着かないので、書いておく。 スタンフォードに出張する直前に前触れ無く入ったメールだった。僕が留学していた先でお世話になったProf. Claudio Ciborra(クラウディオ・チボラ)が2/13に彼の故郷であるミラノで亡くなったという知らせだった。享年53歳。あまりに早い別れだ。 Claudioは、僕が留学していたLondon School of EconomicsのDepartment of Information SystemsのConvener(学科長)を2000年から務めていた。僕は1999年から2003年までこの学科に在籍していたので、彼がConvenerとなった後の彼の手腕による変化や功績をよく知っている。彼がConvenerになってから、学科は大きく様変わりし、たくさんの新しい試みが実行に移された。そして、その多くは大きな成果を上げ、Claudioの評価をさらに上げることとなった。 Claudioはいろんな意味で「アンビバレント」な人間だった。Information Systems分野の研究者としての彼の名前を一躍有名にしたのは、取引費用の経済学理論を情報システム分野に大胆に取り入れた実証分析で、それまでの情報システムの構築手法や組織へのインパクト分析の枠組みに新たな地平を拓いたことだった。しかし、1990年代後半以降の彼は、一気に難解な形而上の世界へと研究の針路を採り、情報とは何か、その情報を扱う人間の存在とは何かという哲学的な問いに向き合い続けた。そうした彼の「転向」に違和感を感じていた同僚や研究者仲間は少なくなかった。 彼は背が高く、とてもオシャレなイタリア人で、いつもちょっと斜に構えた雰囲気には独特のものがあった。現代のパワーポイント全盛の講義のなか、彼の講義スタイルは、マジック一つ持って教室に現れ、強いイタリア訛りで訥々と話し始めて、細かい字でホワイトボートにコチョコチョと要点を書くだけのものだった。それは、彼の取っ付きにくい雰囲気やシニカルな口調に加えて、本当に学生泣かせの講義だった。しかし、そんな彼がフラッと学科主催のパーティーに現れて、学生と気さくに話したり、ダンスミュージックに合わせて学生たちと一緒に楽しそうに踊ったりするフランクなところもあった。 彼はある意味とても正直な人で、学会や研究会などでも、発表者がどんなに大物だろうとも、自分の考えと違うところは鋭く問い詰めたりする激しいところがあった。そういった彼の正直さは、一部の研究者からは「無礼だ」とか「変人だ」とか思われたりしていたようだ。その一方で、博士課程の学生だった僕などが、研究テーマのことで恐る恐る彼の意見を求めに研究室に行ったりすると、とてもやさしく丁寧に意見を述べてくれて、最後には励ましの言葉などもかけてくれたりする暖かさも持ち合わせていた。 大抵の人はそんな彼のアンビバレントな人格に戸惑いながらも、どこか憎めない、どこか愛嬌のある彼の魅力に引き寄せられていた。そんな彼が死んだ。 彼とは、昨年後半に彼が編著者の一人になっている本の翻訳の相談をメールで頻繁にしていた。僕がこの翻訳の話を持ちかけたとき、3人いる編著者のなかで真っ先に「I think this is a great idea and opportunity!」と返事をしてくれたのが彼だった。その後10月あたりに彼が病気で入院しているということを聞き、翻訳の話も少し遅れることとなった。結局、翻訳契約は年内には固まらず、年を越すこととなったのだが、いま思えば、もっと早く彼に話を持ちかけて、もっと早く話を進めていれば・・・と思うと、悔やんでも悔やみきれない。 僕は、ある意味幸せなことなのかも知れないが、これまで親族や知人・友人が死ぬということをまったくと言ってよいほど経験していない。そのためか、今回、大変お世話にもなり、しかも今まさに仕事を一緒に進めていたClaudioの死は、言葉では表せない重石として僕にのしかかってくる。 Claudioのあまりに早い死を受け入れるのはまだ少し難しいところが僕にはあるが、彼との最後の仕事になった翻訳を仕上げることが、少しでも彼の弔いになるのではないかという微かな希望を胸に、今は粛々とその仕事に励むほかない。 May his soul rest in peace and silence. Posted by MK @ 05:28 PMCategory : Research - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - セイさま とても暖かいコメントありがとうございます。 今回のClaudioの死は、私にとってあまりに唐突でしたので、大きな悲しみというよりは、なにかポッカリと穴が空いてしまったような空虚感のような思いが強いです。しかし、空虚感の隙間からちょっとずつ悲しみが染み出してくるというか・・・。そんな思いを抱くことがちょっと初めてだったもので、自分でも落ち着かずにいるというところなのです。 いまは彼と進めていた仕事に取り組むことで彼との繋がりを感じられるということが、ある意味幸せのように感じられます。いまはそうしたささやかな幸せを胸に、日々頑張っていきたいと思っています。 今後ともよろしくお願いしますね。では。 Posted by: kakihara : February 26, 2005 10:30 AM |
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ミクシーの足跡からお邪魔します
誰かが亡くなる事は、いずれ当然のようにやって来ます
昔、大好きだった母方の祖父が他界した時に寂しくて辛い気持ちよりもそんな事を思いました
病気で入院している間も毎日登校前に新聞を届けていて、今日は昨日よりも言葉に張りがない、朝食を残す量が増えた、もうベットから起き上がる体力もない、そんな日に日に弱っていく姿を見ながら死が祖父の身に迫っている事を肌で感じて、その日の為の心の準備が出来ていて出てきて気持ちなのかもしれませんが
去年の春には、同級生の友達が事故で他界しました
これはあまりにも突然で、あの子はもうどこにも居ないんだとは信じられませんでした
誰かや何かが居なくなる事はとても寂しい
思い出にしてしまうのが辛い事もあります
でも逢えて良かったとも思うんです
生きていても忘れられてしまえば死んでいるようなものです
以前、私の友人が思い出や過去はしがらみで無意味な物だと言った事がありました
学習できればそれでいいんだと言う様に
確かにそれも一理あります
でも、それこそ寂しいことの様に思えてなりません
喜怒哀楽、出逢った人達の全てを覚えている事は出来なくても、忘れないでいる事が何よりもの、せめてもの手向になるのではないでしょうか
初めてのメールで、個人的な話の上に長々と失礼しました
なんだか胸の詰まるお話で気になってしまったもので
どうぞ、お体を大事して元気に毎日を笑って過ごして下さい
Posted by: セイ : February 26, 2005 02:43 AM