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Thursday, April 24, 2003


前回最近の邦楽を聴いてちょっと感じたことを書かせてもらったわけだが(つーか、単なる個人的な趣味の話だけど)、今回つくづく感じたのは、邦楽・洋楽問わず、音楽ビジネスはネット環境と益々複雑に絡み合っていってるな〜ってこと。

近年、CDなどの音楽ソフトは年々売上を落としてきている。昨年全世界での音楽CDの売上は前年比で7%落ち込み、日本に限って言えば9%とさらに深刻な落ち込みとなった。この音楽CDの急激の売上減少は、CDの内容をパソコンに落として別のCDに複製したり、データを人と交換することが容易になったことが大きな原因と言われている。このため音楽業界はなんとかして音楽データの複製・交換に歯止めをかけようと、コピーコントロールCDなどの方策を採るようになってきている。

このように、新しいネット環境の拡がりとともに現れてきた新しい音楽ソフトの楽しみ方は、これまでの音楽ビジネスの根本的な収益構造や著作権の考え方などを暴力的なまでに破壊しつつある。しかし、そうは言っても、音楽ビジネスに限らず、ネット環境の有効活用はもはや現代のマス消費財・サービスビジネスの大前提になりつつある。特に、効果的な宣伝・プロモーション活動を行うためには、ウェブサイトの有効活用は必須と言っても良い状態だ。現に、ほとんどのミュージシャン・アーティストは専用のウェブサイトを用意しており、そこで様々な情報発信を行っている。また、今年1月に宇多田ヒカルがネットからライブでストリーミング放送をして、100万人ものアクセスがあったことは記憶に新しい。

まさにここに音楽業界のジレンマがある。ネットをうまく使わないと音楽ソフトが売れない。しかし、ネット環境での音楽ソフトの使い勝手を上げてしまうと、その音楽ソフトそのものの売上が減ってしまう。このジレンマを乗り切るひとまずの方策が、上記したようなCDからの音楽データのパソコンへの落とし込みを制限するコピーコントロールCDということなのだが、まあひとまずはこれくらいしか手立てが無さそうである。

こうした技術的な解決は、これからもいくつかの手段が現れてくるだろう。そのことに関しては僕はあまり心配はしていない。それよりも僕が危惧しているのは、この音楽ソフトの複製・ネットでの交換の拡がりという現象をきっかけに、音楽ビジネスの世界とネットの世界との間に、不必要なまでの敵対関係ができあがってしまうことだ。音楽業界はネットを目の敵にし、ネット側は音楽業界の都合など完全に無視するような状況は、双方にとって不幸であるばかりか、誰も徳をしない。こうした業界間の仲たがいで一番損をするのは、言うまでも無く一般消費者だ。

音楽業界の人にとって、音楽がデジタルであることの利便性、ネットで繋がることの可能性の大きさは理解が難しいのかもしれないし、理解できてもなかなか受け入れがたいものなのかもしれない。同様に、ネット側の人間にしてみれば、著作権やコピーライトという根本的な考え方の理解がまだまだ少ないのかもしれないし、そうした考え方がネットならではの「自由な雰囲気」を侵すように思えるのかもしれない。ただ、双方の歩み寄りが無い限り、この「囚人のジレンマ」的状況は解決の方向には向かわない。

また、一人一人の消費者の姿勢ももう一度考え直してみる必要もある。人がなぜCDを買おうと思うのか、もっと言えば、なぜ音楽を聴きたいと思うのか。それは、極めて純粋な「美への欲求」や「心の充足」といったものが根底にあるはずである。大げさに言うなれば、音楽に対する愛がなければ、音楽を聴きたいとも思わないし、ましてやお金を払ってCDを買おうとは思わないだろう。

「愛」などと言うと、何を青臭いことを、と思うかもしれないが、インターネットマガジン前編集長の倉園氏が、「気に入った曲を手に入れる際に、なぜタダで音楽データを落とすのではなくお金を払ってCDを買うのかと言えば、それはその曲に対する愛だからだ」というようなことを書いていた。音楽への愛の表現としての購買行為、その曲に対する思い入れの表現としての購買行為、である。お金を払うという一人一人のちっぽけな行為に込められた意味、このことも僕達は現代のネット社会の中で、もう一度ちゃんと考え直してみる必要があるだろう。


Monday, April 21, 2003


今日は明石にある実家で夕方まで過ごしたのだが、実家のテレビにはケーブルテレビが入っており、数あるチャンネルのなかでもViewsicという邦楽(今はJ-Popと言うらしいが)専門のチャンネルにはまってしまい、4時間ほどぶっ続けで見てしまった。

このチャンネル、最新ヒットチャートのPV(プロモーションビデオ)をひっきりなしに流しているのだが、昨今の邦楽は全体的に女性アーティスト/グループのほうが男性アーティスト/グループよりも元気があるんじゃないかなと思った。もちろん、SMAPとかB'zとか、相変わらず売れている男性アーティスト/グループもそれなりにいるのだが、さすがにもう新鮮味が無いし。

印象に残った女性アーティスト/グループをいくつか挙げてみようと思うが、まずやはり宇多田ヒカル。彼女の才能の幅と深さには驚くばかり。彼女の声質は僕的にはあまり好きではないのだが、それでも才能豊かな楽曲作りや個性ある存在感と合わせると、ほんと女性アーティストとしては敵がいないって感じ。

次は中島美嘉。彼女は、僕がイギリスに行っていた間にデビューしたみたいで、デビューからの経緯についてはほとんど知らないのだが、各種の新人賞を総ナメしたとか。それよりも、今月あたまに発表された新曲、「Love Addict」のJazzyなサウンドにはたまげた。僕は高校・大学の頃、イギリス発のAcid Jazzブームにはかなりはまったクチなんだが、この曲の都会っぽいクラブジャズ・サウンドはそれをちょっと彷彿させる。この曲、かなり好きかも。

いきなり志向は変わって、次はミニモニ。。う〜ん、なんと言ったら良いのか・・・。けど、やっぱりまだまだ勢いありますね〜。今回の県庁所在地の唄にしろ、これまでのほかの曲にしろ、ミニモニ。の曲は、幼稚園でのお遊戯の時間に使われること意図しているようで、その一連のターゲッティングの明確さはプロデュース物としては高く評価して良いと思う。たしかに、退屈な曲でお遊戯するより、こーゆー感じのほうが今のチビッコ達は喜ぶに違いないわな。

あと気になった女性の新人を1グループと1人。まずグループのほうは、女性デュオのB@by Soul。デビューシングルの「トキワの街角」の軽快なHip Hop系ポップサウンドが耳に心地よい。ラップってあんまし好きじゃないのだが、このデュオのラップ担当の子のそれは、僕に初めてラップをカッコイイなと思わせるものがあった。

もう1人気になった新人は、玉置成実。数日前にデビューシングルの「Believe」のCFをテレビで見た時からとても気になっていた。躍動感溢れる歌声とキレのあるダンス。多数のバックダンサーと息の合ったダンスはジャネット・ジャクソンみたいで超カッコイイ。彼女からは、Super Monkeys時代の安室奈美恵を初めてテレビで見たときと同じようなインパクトを受けた。さらにビックリしたのは、なんと彼女、いま14歳・中学3年生とのこと。う〜ん、彼女の将来には大いに期待したい。

基本的に僕は洋楽好きな人なんだけど、こんな感じでたまにはじっくり邦楽を聴いてみるのも結構楽しいもんだな〜と思った日曜日でした。


Friday, April 18, 2003


昨晩関西学院大学出版会主催の新任教員懇親会というものに参加してきた。食事がでるということだったので、浅ましくそれ狙いでフラっと参加したわけなのだが、思いもよらぬ収穫があった。

参加者全員に対して、関学社会学部の教授で副学長もされている宮原浩二郎氏の著書「自分のためのMastery for Service」が記念品として贈られた。正直、最初は「もっとマシな記念品くれよ〜」って思ったのだが(出版会の方々、そして宮原さん、ゴメンナサイ)、家に持ち帰ってお風呂に入りながら読み始めてみてビックリ。こりゃ〜面白い。ほんと、「目から鱗が落ちる」というのはまさにこのことを言うのだと思った。

ご存じない人もいると思うが、「Mastery for Service(奉仕のための練達)」というのは関学のスクールモットー。僕は高校・大学と関学にお世話になったのだが、はっきり言って僕はこのスクールモットーの偽善的な響きが好きではなかった。しかし、この本を読んでみて、このモットーが言わんとしていることは、単なる「人にやさしくしなさい」という奉仕の勧めではなく、内向きの「自己修養(練達)」と外向きの「献身(奉仕)」の弁証法なのだと知り、なんと自分の理解は浅はかだったのだろうと思い知らされた。

社会における良きサーバント(召使い)であるために、強いマスター(主人)であれ、と。こう考えると、とたんに「mastery」と「service」という言葉のあいだに力強い躍動感がみなぎってくる。あんなに退屈だと思っていたスクールモットーが息づき始めるのである。こんなことも知らなかったなんて、なんとまぁ僕は無知だったんでしょ。

言うまでも無く、このサービスという概念、現代経営学のなかでも中心的な概念のひとつである。サービス経済の拡大、企業による絶え間ない消費者向けサービス合戦、ITの普及によるサービス領域の拡大と変容、etc.。今回知った「Mastery for Service」の話を、バーバラ・グーテックなどの経営学におけるサービス概念の議論と絡めて考え直してみると結構面白いかもしれない。うん、いつかやってみよう。なにはともあれ、関学出版会の方々、そして宮原さん、ありがとう。


Saturday, April 12, 2003


以前にお伝えした航空管制システム障害の話だが、その後もう少し詳しいことが分かってきたようだ。結局のところ、システム問題は人間の問題であり、組織の問題であることの典型であろう。

映画「マイノリティー・リポート」の中で、トム・クルーズ演じる捜査官が最先端の犯罪予知システム「プリコグ」の完璧さを説明するシーンで、コリン・ファレル演じる司法省捜査官の「いや、問題は人間だよ。問題を引き起こすのはいつも人間なんだ」という意味深い台詞が思い出される。そう、システムと人間は別個の存在なのではなく、相互に複雑に絡み合った1つの動的リアリティなのである。


Saturday, April 05, 2003


先月新しいケータイを買ったことは先日お伝えしたが、早くも重大な問題を発見した。重大と言っても、他の人にとっては重大でもなんでもないのかもしれないのが、少なくとも僕には重大に思えた。それが何かというと、ケータイの充電器の仕様のことである。

僕が4年前に日本で使っていたケータイと比べて、最近のケータイの電池はとっても長持ちするようになった。どれも連続待ち受けで300時間以上、日常的な使用では2日おきの充電で十分であろう。それに、充電器そのものも格段に小さく、軽くなった。カバンに入れて持ち歩いても、それほどかさばることもないだろう。

とはいっても、たまには充電するのを2日以上忘れたりすることもあるだろう。旅先に充電器を持っていくのをうっかり忘れてしまうこともあるかもしれない。先日僕もそのような状況に陥った。先月は引越しの荷物の整理や新居の準備などで、東京と関西を3往復することになった。その際に一度、関西のほうにケータイの充電器を置き忘れて東京に出て行ってしまったのである。

しかし、僕は充電器を忘れてしまったことを、最初それほど大きな問題とは思っていなかった。なぜなら、僕がイギリスで使っていたケータイの充電器は、メーカー、機種によって大きさこそ変われど、ケータイに接続するジャックの形状と電流の大きさはほぼ共通化されており、他の人が持っている充電器をそのまま自分のケータイの充電に使えたのである。僕は、当然こんな単純なことは日本のケータイでも同じだろうと思っていたので、東京で誰かの充電器を借りればいいやと思っていた。

ところがどっこい、東京で家内のケータイの充電器を借りて自分のケータイに繋ごうとしてビックリ。形こそ似ているものの、ジャックの形状が微妙に違うので繋げられないのである。その時の東京滞在は4日。しかも、人と連絡を取り合うために頻繁にケータイを使うことになったため、3日目の途中で敢え無く電池切れとなってしまった(泣)。

もしかしたら、ケータイの充電器が機種間でまったく互換性がないことなど、日本では当たり前なのかもしれないが、正直僕はとっても驚いた。日本のケータイの高性能、多機能ぶりから考えると、充電器の仕様を共通化することなど、技術的に問題にならないはずだ。しかし、現に、機種間で充電器の形式はバラバラなのである。確認はしていないが、同一メーカーの機種ですら、ぜんぶ違う充電器を用意しないといけないのかもしれない(誰か知っていたら教えてください)。

確かに、充電器そのものの改良(急速充電など)も目覚しいものがあるので、古い機種の充電器がぜんぶそのまま新しい機種に使えるということは難しいのかもしれない。また、メーカー間、機種間でそれぞれで異なる方式のバッテリーを使っていることも、充電器の共通化を阻んでいる要因ではあろう。しかし、少なくともジャックの形状や充電方式を部分的にもでも共通化し、他の機種の充電器を転用できるようにすることは、多少の不都合に目をつぶれば(充電時間が長くなるなど)技術的にはそれほど難しいことではないように思う。

携帯電話とPHSの端末の契約台数は8000万台を超え、乳児、幼児、一部の高齢者を除けば、ほぼ全ての人がケータイを持っているといっても良い過ぎではないだろう。ここまで大衆に広く普及したケータイが、全て機種ごとに異なる充電器を使っているとしたら、あまりに不経済ではないだろうか。自動車がメーカーや車種ごとに異なる種類のガソリンを使っている状態など全く想像できないが、ことケータイではそれが現に起こっているのである。

こうした充電器の仕様の共通化の問題は、大げさに言えば、「標準化」ということに対する日本のメーカーの感受性の低さが露呈されているとも言える。日本のメーカーはそれぞれ独自に技術開発を活発に進め、激しい商品開発競争を行っている。それがまさに「ものづくり大国・日本」の肝であり、日本の消費者はそのものづくり競争の多大な恩恵をこれまで受けてきた。しかし、そこには標準化の意識がぽっかりと抜け落ちてしまっている。

概して、日本のメーカーはメーカー間、そして機種間での仕様標準化に対する意識、意欲が低いと言える。仕様の標準化は、一方の側面で各メーカー独自の技術開発を阻害するという負の効果があるが、もう一方でユーザー側の利便性、経済性が向上するという正の効果がある。このトレードオフはそう簡単には片付けられない難しい問題ではあるが、少なくとも明らかなのは、世の中の大勢の生活者が使う大衆財であればあるほど、仕様の標準化の重要度は上がるということである。上記したように、再び自動車の例を挙げれば、メーカーごとに運転の仕方(ハンドル、アクセル、ブレーキの位置など)が異なっていたら大変である。

恐らく、ケータイも大衆財と言ってもう良いだろう。そのケータイが、である。たかが充電器、されど充電器である。ただ、ケータイの充電器の仕様問題に対してこのように長々と意見を述べてはみたものの、たった一言「ちゃんとマメに充電しとけば良いだけじゃん」と言われてしまうと、「それもそうなんだけどね」としか返す言葉はありません(泣)。バッテリーの残量目盛りがまだ残っている状態で継ぎ足し充電するのがどこかもったいないような気がする僕は、やはり貧乏性なのだろうか・・・。いや単にオッサンなだけか・・・。


Friday, April 04, 2003


今日は大学の入学式だった。僕自身も心機一転スタートといった感じ。新入生・在学生の皆さん、同僚の教職員の皆さん、どうぞ宜しくお願い致します。


© Masao Kakihara 2003
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